結婚式の日(1945年12月1日)

輸送車隊に乗り込みバーダム(600マイル先)へ行こうとしたが、バロー・クリークまで来たところで再び赤痢がひどくなり、一週間の滞在後出発。バーダムで家畜輸送列車に乗りダーウィンまで300マイル行った。ウィネリーの野営地に12月13日まで滞在。
ダーウィン近郊のウィネリー野営地
12月14日軍艦パトラス号に乗り、ボート号、バレンタイン号とともに海路インドネシアのアンボンへ。1941年12月17日アンボンに上陸。空襲警報発令、17日、19日(2回)、20日、22日、23日、24日、25日、29日(この日は実際に空襲があった)。明けて1942年1月12日(2回)、13日(2回)、15日(15回)現地の者4人が市場で殺された。16日(4回)豪軍艦スワン入港、17日、18日、21日、23日、24日、25日、ハーロングの弾薬庫が爆撃された。実際に空襲があった日は12月29日、1月7日、15日、16日(2回)、22日、23日(2回)、24日、25日、26日、30日(教会が爆撃された)。
1942年11月、食料を求め脱走して日本兵に処刑された11人のオーストラリア兵の合同墓地。左はJ.F.オドンヒューさん。被害者の一人の兄弟。
アンボン市の南のはずれのオーストラリア軍防御線跡地にあるオーストラリア退役軍人連盟によるカモメ部隊記念碑。
北アンボンの海岸線
過去3週間、空襲計13回、空襲警報127回。1月11日、我々はウィニトーへ移動し書簡や指令文書をすべて隠滅。負傷者収容所を作るために日の出から日没まで働きづめで砂嚢を6000詰め、縦横30フィートX14フィート、深さ4フィートの穴を掘り側面を補強した。
さらに寝るための小屋を5つ建てた。床は竹で作り地面から2フィート、天井はテントのシートで覆った。8人が入ることが出来た。ベッドの下に塹壕を掘り警報の第一報で入れるようにした。
アンボンの地図
一日に許されるのはビール1本だけだったが、皆がたいてい空襲の後までとっておいた。そうすれば楽しんで飲むことが出来るからだ。皆が金を出し合い、私が調達役に選ばれて、贅沢にやったものだ。子豚2匹、果物、ベーキングパウダーなどを私が買ってきて調理係が料理した。
しかし、1942年1月31日の土曜日、この日は一日中雨が降ったが、日本人の奴等が戦艦、輸送艦を含めた計37隻で到着し、奴等23,000人と我々1,100人、オランダ兵400人、原住民の部隊5,000人との間で戦いになった。奴等はリーハリ, ヒツラマ、ラツハラートの3ヶ所に上陸した。1942年2月1日午前7時、朝食直後、我々は捕虜として捕まった。午前11時までに療養所まで連行され、その後アンボンの日本司令部につれて行かれた。学校に収容され20フィートX16フィートの部屋に52人が詰め込まれた。粉ミルク2缶と飴玉、缶に入った緑色のペンキのようなものを奴等が投げ入れた。午後10時に飯と肉の缶詰を何個か与えられた。翌日、我々はホテルとは名ばかりの場所に移され、2月5日(木)までそこに泊まった。立派な戦いぶりを見せた部隊も3日(火)には投降した。我々全員がタンツーイに移され、明けても暮れても米と魚ばかり食わされた。5月13日に連合軍機による空襲が初めてあり、艦船1隻に損傷を加え、3隻を沈没させたが、連合軍機1機を失った。ちょうどその日私はマラリアにかかり1週間続いた。次の攻撃は9機によるものだったが、被害はなかった。5月24日戦闘機3機を撃墜した。[ガル部隊とともにタンツーイに抑留されていた約30人のオランダ兵は、近くの収容所に拘束されていた自分達の妻と連絡を取ろうとしたところを、日本人に見つかった。懲罰はオーストラリア兵収容所から30メートルほどの丘で行われ、日本人はつるはしの柄、鉄の棒、ワイヤーロープなどの武器を使い捕虜を殴った。暴行は2時間に及び、3人が死亡、ほかの者の負傷も凄惨なものであった。(ポール・プレッジャー補記)] 7月12日バスケットボールをしていて膝を捻挫し、10日間入院。

タンツーイ捕虜収容所(アンボン1945年)。戦争初期に爆撃を受けた。コタ・アンボンの北に位置する。現在は戦没者墓地となっている(写真撮影:1950年代)。
1942年10月25日、我々263人、オランダ兵245人は輸送艦タイキョウ丸に乗せられ、11日後の11月5日に海南島のハショウに入港。
12月13日に赤痢にかかり9日間で体重が68.1kgから48.1kgに落ちた。1943年2月17日に退院。結局クリスマスの特別料理を食べ損なった。脚気にもなった。ひどい症状があるわけではないが、無理をするとすぐにむくみが来て、指で押さえるとそのままくぼみが残った。これまでビタミンが何であるのか知らなかったが、我々はビタミンBが含まれるものなら何でも追い求めるようになった。食事はひどい物が続いている。分厚いステーキを噛みしめ、半ダースの卵を平らげることが出来たら、どんなにいいだろう。1日3食米ばかり。朝食は茶碗一杯の飯に汁が一杯。昼食は茶碗一杯の飯と汁、夕食には茶碗一杯の飯と汁に週2回くらい生魚(腐ったものだ)と、時々野菜(ただの草だ)が付いた。月1回肉が出た。最初の6ヶ月で5人を赤痢で失った。
1943年7月25日に脚気になり、前回とは違い今回は体がひどくむくんだ。皆の中で私が3番目にひどかった。70人余りが入院していたが、それ以外の者も全ての者が脚気だと言ってもいいくらいだった。今度は私の体重は6日間で68.1kgから79.9kgに増えたが、体の組織に体液が溜まったためだ。実際に見たことのない者はどんな状態になるのか想像することは難しいだろうが、私は頭の先から肩まで同じ太さになった。関節のあるところは至る所が破れ体液がでた。睾丸も小さめのサッカーボールくらいに腫れ上がり、歩くときは手で持ち上げなければならなかった。本当の話だ。今はむくみも引きはじめ正常に近くなって来ている。ようやくどうにか歩けるような仲間達が労役から収容所に戻ってくるのを見るのは本当につらいものだ。
脚気の症状−モラタイの病院で回復しつつある患者
昨日(1943年8月7日)1人が担ぎ込まれ、4人が他の者に支えられながら帰ってきた。一体どれくらいこんなことが続くのか分からないが、早く終わればればそれに越したことはない。そうでなければ墓場行きの者がまた出るだろう。先日、新聞で70万通の戦争捕虜宛の手紙が仕分けされたと読んだが、我々皆がここにも届けられることを祈っている。しかし我々の収容所は戦争捕虜収容所の一覧表に載っていなかったから、おそらく何も届かないだろう。母さん、あなたに会えて僕が無事だと知らせることが出来るのなら、持っているお金を全てなげうってでもそうするだろう。でも日本人の奴等はそれには及ばないと考えているようだ。 8月も終わりになり軍に入隊してからちょうど3年が過ぎたところだ。先日は妹のペッブの誕生日だったが、忘れたわけではないよ。きっと大きくなって立派になったことだろう。お前の誕生日が兄さんのより幸せな日だったことを祈っているよ。イタリアが降服したニュースを聞いて、皆がクリスマスまでには自由の身になれると期待を膨らませているが、私はそうは思えない。44年の3月あるいは6月になるというのが私の予想だ。セーターと交換でビタミンBを手に入れた。これで6ヶ月から8ヶ月は大丈夫だろう。何ヶ月か寒くても永久に冷たくなるよりましだ。これから取り戻すべきことがたくさんあるのだ。雨が降っているが、屋根が穴だらけなので滴をなんとかよけようとしている。晴れの日にベッドに横たわれば、日の出から日没まで視界から外れることなく太陽を見ることが出来るのだから、雨の日がどんなものか想像がつくだろう。こんな日はおいしい母さんの料理や、熱い気持ちのいい風呂が恋しい。風呂上がりに椅子の上で体を丸めてラジオのスイッチを入れる。ああ、一体何時になったら現実になるのか。
9月が終わろうとしている。なんと陰鬱な一ヶ月だったことか。10人が死んだがほとんどは脚気だった。寝たきりになった病人を誰一人として助けることが出来ず、皆が落胆している。亡くなる前の24時間、苦しそうに息をしているのを、手をこまねいて見ている以外に何も出来ないのは本当につらい。日本人の奴等も事態に気付いてビタミンBの含まれる食事を出すようになった。ニュースはわずかだがうわさには事欠かない。また私の誕生日がやってきた。これで26だ。じきに白髪になってしまうだろう。さっき給与記録帳で計算してみたら、自分の給料が231ポンド14シリング2ペンス、未払いになっている給料が99ポンド2シリング、婚約者のジェシーへの支給分が79ポンド4シリング、合計410ポンド2ペンス。でも今の自分に何の役に立つというのか。家へ帰っておいしいオーストラリア料理を食べることが出来るのなら、喜んで全部なげうつだろう。ここでは誕生日に何かちょっとしたものをもらえることになっている。私はミートパイをもらうことが出来てすごく運が良かった。仲間のトミー・ベッツが自分で育てたトマトをくれた。皆でごちそうを食べたが、如何せん量が足りない。食料がとても少なくなって来ている。日本人の奴等が同じ思いをしていることを望むばかりだ。
ついにクリスマスを迎えようとしている。1943年12月4日。仲間の間で盛んに物の売買が行われている。ニール・マッケラーとトミー・ベッツと私も、なくてもやっていける服を選んで、仕事に取り掛かった。クリスマスには楽しむと決めているからだ。値切ったり交渉したりした結果、パイナップル缶1つ、砂糖2ビン、紹興酒4本、棒チョコレート2本、タバコ30包を調達することが出来た。あとはクリスマス・プディングと懐かしい顔があれば完璧だ。家に帰ったときには必ず全てを揃えて見せるぞ。今は2月の中旬で、皆が楽観的になっている。11月の新聞を今になってやっと受け取ったが、ニュースは非常にいいものだった。そしてそれを裏付けるかのように空襲が2回あった。2月13日午後3時10分、爆撃機が単独でやって来て、低空飛行で埠頭に爆弾を落とした。その時我々はクリケットをしていたが、爆撃機は30フィート上空をかすめていった。我々と故郷との間はわずか30フィートの距離で隔てられていたのだが、どうすることも出来なかった。翌日2,3機が同じ方角から飛来し埠頭と凹肩坐墻を爆撃したが、命中したのかどうかは分からなかった。空襲が始まるとすぐに、我々は小屋に行き窓を降ろさなければならなかった。外で攻撃にさらされている奴等がやられることを、小屋の中でじっと待っていた。昨日も爆撃機が来るのを期待していたが、一機も来なかった。みんなと再び会う日も遠くないだろう。
今日は3月28日。先日すごい空襲を目にした。26日の日曜日のことだ。午後3時頃、私は2人の患者がトランプをしているのを眺めていた。飛行機の唸る音を聞いたとき、私はドアのところへ走って行った。一機が起重機へ全速力で向かって行くところを見て、オーストラリア機であることが分かった。「味方だ」と私は叫んだ。数えてみると5機いた。私が病院の担当だったので窓を全て下ろし、壁の割れ目へ急いで飛び込んだ。私達の収容所は緩やかな坂の上にあったので、うまく様子をうかがうことが出来た。高射砲が爆撃機に向けて発射されたが、それをものともしなかった。地上すれすれを何度となく旋回し爆弾を投下した。私達のところからは何に命中したのか定かではないが、爆撃機は飛び去って行った。勇気づけられる光景で、故郷への思いを強くした。先週ひどい憂鬱におそわれ、ちょうど子供の頃のようにホームシックに苛まれた。伝わってくるニュースも最近ではほとんどないが、健康にやっている。ここでは健康であることだけが大切なのだ。我々が植えたトマトが豊作で、クリスマス以来一日二回食事にトマトを食べている。トマトは水を好むので50メートルあまりの距離を水を汲んで運ばなければならないが、それだけの価値はある。先日、人参を植えたが、うまく育てばいいと思っている。12月13日以来雨が全く降っていないが、嵐が近くにやってきているようだから望みはある。皆が野菜を育てているからここはまるで中国人の庭のようだ。食品の栄養価や果物のビタミン含有量を話しているところを聞いたら、みんなはきっと笑い出すことだろう。
4月15日(1944年)
一週間位前に新しい伝染病が発生した。パラチフスだ。やっと日本人の奴等の関心を向けさせることが出来、奴等は見るもの全てに消毒薬を噴霧している。病人が出た病棟の担当だったので、私も感染した。熱が1週間だんだん上がっていき、しばらく高熱が続く。その後しばらくすると熱が下がり始めるが、3,4週間目に背中の痛みや腰痛が出て、便秘や軽い下痢の症状が出る。それが血中に入り毒血症の危険な状態になる。私はかかってから1週間あまりになるが、気分はずっと良くなって来た。
4月8日に日本人の見張りと20人の我々の仲間が、トラックで丘陵地帯に労役のために出かけていったところを、ゲリラに襲われ9人が殺され、10人が捕らわれ行方が分からなくなり、5人は無事だった。
死亡:ギルダー軍曹、コーネル兵士、クラクストン兵士、ラッセル・タルボット兵士、ダイヤー兵士、ウォートン兵士、アームストロング兵士、マッケンジー兵士、ハイムズ兵士
行方不明:ヤングベリー伍長、デイビッドソン伍長、スタッフォード兵士、ホーキング兵士、ストークス兵士、リンチ兵士、ヘインズ兵士、ラットクリフ兵士、ストルース兵士、チェインスワース兵士
無事だった者:オドンネル兵士(負傷)、ヒリアー兵士(負傷)、ネルソン伍長、マクマーン兵士、マーネイン兵士
6月17日(1944年)
寂しい我々にとっては祭りのようなすばらしい日だった。3日前ココリエに我々宛の手紙があると聞いて以来、配給トラックを希望にはやる満面の笑みで出迎え、結局何もなくて意気消沈する毎日だった。しかし、今日はトラックが我々への手紙を運んできた。400通ほどが届けられると収容所全体が大騒ぎになった。手紙が手渡されるのを誰もが固唾を飲んで見守っていた。軍曹が一人一人の名前を読み上げるのを物欲しそうな目で見つめていたが、自分の名前が呼ばれると喜びの表情に変わっていった。私はじっと我慢していた。その一瞬一瞬がどれほど長く何年間ものように感じられたことか。とうとう私の名前が呼ばれ、その瞬間全てが静止したかのようだった。今の私と同じくらい心を高ぶらせ、机に向かい手紙を書いているみんなの姿が目に浮かぶようだった。1通、2通、3通、4通。恋しいみんなの手紙、すばらしい手紙が4通。私のために便せんに向かい、自分の思いを綴ってくれたのだ。どれほど遠くなってしまったと感じられることか。3年もの月日が経つとみんなの姿を思い浮かべることがどれくらい難しくなるか分かってもらえないだろう。私はすぐに手紙を開けることが出来ず、新しいおもちゃを手に入れた子供のようにはしゃぎ回り、自分が4通も手紙をもらったことを皆に話して回った。手紙を受け取ってこれほどまでに感じるのなら、家に戻った時には感動のあまり死んでしまうだろう。ついに勇気を振り絞り、胸にしっかり手紙を携えて、手紙を開けるために一人になり、ひとつひとつ順番に開封した。最初は母さんからの手紙だったが、2年前に書かれたものだった。でも、そんなことはどうでもいい。母さんから手紙をもらったことだけで本当にうれしかった。でも1ページしかなく、あまりにも短すぎる。次の手紙は本当に強い心の持ち主の恋人のジェシー。私の帰りを待っていてくれると思うと、彼女への想いは募るばかりだ。彼女に神のご加護があらんことを。後はマリーとレイから一通ずつだった。まるで、みんなが私の周りに座って自分の手紙から読んでくれと行っているかのようだった。その時以来手紙を何度も何度も読み直し、10回以上も繰り返した。ニールも私宛の手紙を読み、私も彼への手紙を読んだ。なかにはそれほど幸運でなかった者もいて、悪い知らせを受け取ったり、一通も受け取らなかった者もいた。でも、私達のところへ来た手紙の一部を読んで聞かせてたから、乗り越えることが出来ただろう。競馬のメルボルン杯でコロノスが勝ったことも分かったし、ビールが一杯9ペンスして、パブは午後2時から5時まで閉まっていることも知った。返事を書くことは許されなかったが、もしそうすることが出来たならどれほどうれしいだろうか。そうすればみんなに安心してもらえるだろう。懐かしいみんな、もう一度手紙を読み返さなければならないから今日はこれまで。
7月16日(1944年)
時はどんどん過ぎて行く。連合軍は何をしているのだ。すべてがのろく思え、うわさ以外ニュースはほとんど伝わってこない。事実でないと明確になるまで我々はうわさを信じている。そうしなければ生きるのはつらすぎる。食料は最近良くなっている。昨日タバコを18包支給された。タバコがどれくらい士気を高めるか信じられないほどだ。タバコがある間は皆が活気づき希望にあふれているのだ。午後は手紙を読むことと写真を見ることに費やした。そうしていると記憶がよみがえり、帰郷の歓迎がどんなものになるのか考えた。いろいろなことが変わってしまっているだろうか。そんなことはないだろうか。変化に心の準備が必要だろう。でも、あまり大きく変わっていて欲しくない。休暇から帰るかのように、変わっていてほしくないのだ。
8月14日(1944年)
最近気が滅入る日が続いていたので気分転換に一週間野外労働に加わることにした。私は楽しんだのだが、毎日行かなければならない者にとってはひどく単調でつまらないことだろう。スコップで砂を運搬車に積み、丘を押し上げ道路を作った日もあった。別の日は最悪の道を35マイル通って森を越えて未開の土地へ出かけて行った。この土地は中国人ゲリラが蔓延しているため、もちろん武装警備隊が同行した。だいたい10マイルおきに日本の前哨基地があり、高い壁と中央に見張り台があった。本当らしい良いうわさが伝わってきた。クリスマスかその少し後に帰国出来るというのだ。すばらしいことではないか。少なくとも言えることは、奴等が我々をもう一度、2年半同じ目にあわせることは出来ないということだ。いずれにせよこれが終わらなければ私の服はもう何もなくなってしまうだろう。あちこちが破れてボロボロになって来ているからだ。しかし、服はすり減っても、私達の気力をくじくことはまだ到底出来ない。
9月8日(1944年)
私達の意気がどれほど高揚していることか。太平洋の戦況、そしてアメリカ軍のことをよく聞くが、確かに今年のうちに終わるように見える。しかし今年も終わりが近づいているから、年内に決着は難しいようだ。我々は故郷のこととそこへ帰る話ばかりしている。ある夜のことレス・パイアーとアラン・ブラウンリーと私は外で腰掛け、3人の出身であるノース・コーストのこと、懐かしい人達の顔や場所を回想していた。そして自分の家に戻る最後の瞬間がどんなものになるか想いを馳せていた。あの丘を駆け下って家につく前にブランデーを一本注文したいものだ。本当に必要だろう。本当の気持ちをみんなに見せるのは難しいだろう。2週間くらい前がペッブの誕生日だった。つまり軍隊に入ってから4年経つことになる。妹よ、お前のことを忘れてしまったわけではないよ。歳ははっきりと覚えていないけれど、おそらく17か18になったはずだ。汽車から降り立つ日に、お前はどれほど変わっていることだろうか。出征の時はお下げ髪の女の子だったお前が、今では立派に成長したことだろう。でも兄さんにはまだお前は子供のままだよ。希望は高まるが腹は減るばかりだ。食料はまた粗末で少なくなって来ている。あの懐かしい戸棚にしまってあったスコーンやケーキの一切れを食べることが出来ればどんなにいいだろう。ケーキってどんなものだっただろう。どんな味だっただろうか。いつの日かのお楽しみだ。
10月10日(1944年)
何かを書かなければならない、そうしなければ頭がおかしくなりそうだ。そんな気がする。12日間昼も夜もひどい耳の痛みが続いている。本当に参りそうな時もある。本当に持ちこたえることが出来るのかと考える時もある。何よりもこの単調さ。見えるものは空で思い出せる顔ばかり。彼らがどんなことを言うのか分かっている。彼らに向かって叫び出したくなるようだ。そして一人ででも日本人の奴等に襲いかかってやろうかと思う。でも次にやってくるのは絶望だ。そんなことをして何になるというのか。殴り殺されるのが落ちだ。理性が戻り、やがて空想にふけり始める。世界中でこの収容所の210人ほど空想にふける者はかつていなかっただろう。故郷、母、妻、恋人、昔の楽しかったこと、そしてこれからあるはずの楽しいこと。我々はそうやって一日一日を持ちこたえているのだ。ジェシーと私の家をこれまでに数えられないくらい何度も建てたものだ。この戦争はいつか終わるに違いない。でもどれくらいかかるのか。でも、嘆くのはこれだけにしておこう。自分らしくない。私はいつも何とか笑顔でやってきたし、本当に楽天家なのだ。ニュースは良いものだし最近のものが入っている。食料の割り当てはひどく、ほとんど米の飯と汁だけで生きている。野菜といえば百合の葉で、それがうまいと思う。畑はといえば菜っ葉とトマトがあふれているが、まだ何も収穫していない。何てことだ。あと一ヶ月で27歳だ。すぐに年金を受ける歳になってしまうぞ。
12月9日(1944年)
何て寒いんだ。先週は冷たい北風が吹き曇り空だった。皆凍えている。風に当たらなければ大丈夫なのだろうが、小屋は隙間だらけで外も中も変わらない。気温は摂氏8度まで下がった。3週間前オーバーコートを180円で売り、毛布で作ったジャケットを60円で買った。冬に備えて油、豆、米を手に入れたから、ブロムと私はかなりうまくやっている方だ。ニュースは行き詰まった状態だが、我々はまだ楽観的だ。みんなとクリスマスを一緒に過ごせないことを残念に思っている。私の誕生日は過ぎたけれど、あまり何かが変わったような気がしない。父さんの誕生日は月曜日だね。ここの多くの者がコートやジャケットやズボンを穀物の布袋で作っている。私は日本人の奴等の毛布2枚と米袋2枚を縫い合わせた掛布で何とかやっているが、だれもそんなことを気にする者はいない。ウールワーススの店長だった者がいるが、労役に出かける時は米袋のてっぺんに頭を出す穴を開けたものをすっぽりかぶって行っている。我々の姿を見たらどれほど驚くことだろうか。
海南島捕虜収容所の屎尿係:屎尿は畑の肥やしとして使われた。後ろに見えるのは居住用の小屋
1月10日(1945年)
新しい年がまたやって来た。希望は焼けるように熱い。いいクリスマスだった。紹興酒を2本手に入れ日本兵のための余興で歌をうたった。どんな感じだったか想像がつくだろう。クリスマス当日おいしい腹にたまる食事を食べ、タバコ、石鹸、ハンカチ、歯磨き粉を日本人から贈られた。
二日間ほど休養している。寒さも和らぎ天気も良くなった。もうほとんど何も残っていない状態だ。ビン入りの油が一本残っているだけだ。タバコも切れているが、それが一番つらいことだ。良いニュースが続いているが、今年終わらなければあきらめるしかない。
2月5日(1945年)
戦争捕虜になって3年になる。文明社会から連れ出され奴隷の身になって3年になるとは信じがたい。しかし、これが最後の年だ。オーストラリアがすごく近くに感じられ、同時にひどく遠くに感じられる。誰もが次はここだといいと期待している。そうなれば、オーストラリアに本当に戻れるぞ。
2月27日(1945年)
状況は実にひどくなっている。一人一日当たり300グラムの米に水っぽい汁。汁の身はマリーゴールドや百合の葉だ。211人の2回の食事にポークチョップ二つがやっとだ。日本人の奴等は全然こんなにひどい状態でない。仲間は機会のあるごとに食料を盗んでいる。腹を空かせて床につき、朝空腹のまま目覚めるのがいつものことだ。飢えるということがどんなことなのかこれまで知らなかった。みんながこんな経験をすることがないよう願っている。しかし、我々を勇気づけるかのようにアメリカ軍が「火山島」に上陸し、ヨーロッパの戦況は良く、マニラが陥落したことを知った。皆が早期終結を祈っている。何日か前の夜、2人のオランダ兵が脱走したが、まだ見つかっていない。彼らのために見つからないことを願おう。
3月16日(1945年)
気を落とさないようにがんばり続けることが本当に難しくなって来ている。最近は特にきつい。食事はひどく一日450グラムで急速に少なくなっている。肉など全くなく、マリーゴールドとタマネギだ。仲間が弱ってきている。日本人の奴等が暴行を加えているが、仲間が仕事が出来ないからだ。ビームズレーの腕が折れた。がんばり続ける唯一のよりどころはニュースだ。奴等はこの島の防備を全力で固めているし、日本軍の撤退がブルマから東の仏領インドシナに及んでいるから、この島が次になるという期待が大きい。何かが起こってくれさえすれば、どんな戦いになっても構わない。最悪のことが起こった。今日、皆が収容所に閉じこめられたまま働らかされ、食事は午前8時と午後6時の一日二回に減らされた。300グラムの米ということになる。日本人の奴等は懸命に収容所の周りの囲いに電流を流し、堡塁をつくっている。船団がこちらに向かっていて休戦の準備が進んでいるというもっぱらのうわさだ。イギリス軍はブルマを横断し仏領インドシナに向かっている。何とか終わりになってくれ。皆がもう飽き飽きしているし、ひどく飢えている。生まれてこのかたこれほど少ししか食べなかったことはない。スプーン12杯ほどの米と湯のなかにマリーゴールドを投げ込んだだけの汁を茶碗一杯。みんなが食べているソーセージやサラダを食べることが出来きたらどんなにいいだろう。今でも日曜の夜の夕食にいつも食べていたものを覚えているよ。食事の後のスコーンやケーキ。すぐに終わることを神に祈る。
3月31日(1945年)
まだ生きながらえている。でも、食事は驚くべきものだ。一日に300グラム。汁物はジャムのようにつぶしたユウガオの実になってしまった。9日間塩分を取っていない。体がひどく弱っている。一ヶ月足らずの間に72.2kgから61.3kgに体重が落ちた。肉をすごく食べたいし、食事の量も欲しい。我々はまだ閉じこめられたままだ。3日連続で夜になるとアメリカ機がやって来て、一晩中爆弾を落としている。一番近くに落ちたのはここから半マイルほどのところだ。もう私の楽観主義に飽き飽きしているに違いないが、いまでも楽観的だ。次はここだろうし、もうあとほんの少しだろう。やせ細った者の祈りだ。
4月9日(1945年)
空襲が続いている。夜も昼もアメリカが爆撃を続けている。B24、B29は本当に大きな飛行機だ。今日はこれまでに3回空襲があった。アメリカは我々がここにいることを知っているようで、捕虜収容所は避けて攻撃している。二日前、日本の対空砲火の破片が屋根を突き抜けて飛んできた。食事はひどい。体重は58.6kgしかなく、体が弱っている。しかしまだ畑の手入れや病院の務めを続けている。また3人のオランダ兵が脱走した。誰もが考えていることは食べ物と、あとどれだけ経てば自由になれるのかということだ。最近みんなのことをよく考えているし、もう一度一緒にいられる日がくることを神に祈っている。
4月23日(1945年)
また入院している。今度は丹毒で熱が出たが、何とか良くなったようだ。ただもうへとへとなだけだ。200人の他のオーストラリア兵と同じように飢えている。食べ物はといえば米だけで、量も少ない。運が良ければ200グラム。調理すれば缶詰の缶に一杯くらい。それに200人でメロンが3個。畑があるおかげで生き延びているが、手入れをするのは本当に難しくなってきている。何かがすぐに起こらなければならない。そうでなかったらとてもひどいことになるだろう。空爆のためにやってくるアメリカ機を今でも毎日見ている。あのうちの4機があればほんの何分かで全員を連れ去ることが出来るのに、思うようにはならないものだ。アメリカ軍が日本領の島へ上陸したニュースを聞いたが、彼らの捕虜を私達と同じように扱うことを願っている。でも、そんなことをするのは彼らの性分に合わないだろう。私はといえば何のためらいもなしに日本人の奴等を拷問し殺すことが出来るだろう。奴等は犬と変わらないからだ。それ以下だ。ロン・リーチを含む仲間6人が16日の夜脱走した。ここにいる者よりもまともに暮らしていればいいと思う。中国人に大きく頼らなければならないが、彼らを信頼できるかどうかはっきり分からない。わたしは中国人を信用するようなことはしない。
5月3日(1945年)
大きなことが起こっているというのが皆のだいたいの意見だ。ベルリンがロシアに落ちたことは知っているし、ドイツは中央北部地域のごく小さな場所に押しとどめられているということも知っている。日本人の奴等は銃や人員をここから移動し、収容所の見張りは昼間はほんの何人かしかいない。空襲は全くなく4日間で1機が飛来しただけだ。食料の割り当てはわずかながら良くなった。皆が非常に楽観的になっている。神よ、我々の望みを打ち砕かないでくれ。それでなくとも耐え難いのだ。皆の体重が減り、204人の平均は52.7kgになった。誇張ではなく、少なくとも10人の胴回りは両手の指をまわせばくっつくまでにやせている。ネズミやカタツムリも食べた。ネズミはうまいからほとんどの者がねずみ取りを仕掛けている。畑でとれたタマネギやトマトと一緒に料理するとビーフシチューのような味がするのだ。ネズミを食べるような人間になった私のことを想像してみてくれ。でもみんなのいる家に生きて帰るためには食べなければならないのだ。そのためだったら何でも口にするだろう。大の大人が四つん這いになってカタツムリを追いかけているなんておかしなものだ。泥だらけでぬるぬるしていてぞっとするが、タンパク質には変わりない。
5月14日(1945年)
食事が本当にひどくなり一日に小さな茶飲み茶碗2杯の米だけになった。4人が栄養失調のために死んだ。海南島ホクリエの日本軍大将に連絡を取ることが出来たが、彼も我々の状態にひどく驚いていた。どうやら配給担当の者が我々の分を盗んでいたらしい。状況は良くなってきているが、それでも十分にはほど遠い。塩さえないのだ。体重は72.2kgから53.1kgに減った。最近ニュースは全くないが、もうじき家に戻れることを確信している。
5月29日(1945年)
うわさひとつない日が続いた後で、このニュースが収容所に入って来たのは運命に違いない。新聞にはドイツが8日11時に降伏し、日本は無条件降伏を拒否し戦闘を続けていると書かれていた。馬鹿な奴等だ。みんなにとっても良いニュースだろうが、我々にとってはこの上なくすばらしいものだ。熱風のために畑が駄目になり、米だけで生きつないでいる者にとっては、一秒一秒が大きな意味を持つのだ。みんなにとって2,3ヶ月はたいしたことではなくても、我々にとっては生きるか死ぬかを意味するのだ。8週間で4人を失った。脚気が本当にひどい。私も脚気だが、我々の士気は高い。この黄色い畜生どもは私を墓に埋めたいのだろうが、そうはいかないぞ。普通だったら90kgある体重が50kgから60kgに減ってしまった仲間は水の入ったバケツを運ぶことさえままならない。彼らを見るのはつらい。しかし、オーストラリア魂をくじくことは簡単には出来ないぞ。
6月20日(1945年)
時はどんどん過ぎていく。我々の人数が3人減り、263人いたもののうち残りは197人。食事は最近すこし良くなって来ている。一日300グラムの米、いくらかの肉、サツマイモ、豆があるのだ。量は少ないが飢えている者にとって大きな助けだ。本当に飢えているのだ。自分の割り当てをきちんともらっているか、誰もが隣の者を気にしている。平静さは失ってもまだ我々は存在しているのだ。皆が毎日毎日飢えている。どんなくずであっても腹を満たすことさえ出来ればどんなにいいことか。
14日に日本の国会が開かれたニュースを聞き、私達の希望は高まっている。母さん、あと2ヶ月もすればみんなのところへ帰れるよ。そうなるに決まってる。奴等が持ちこたえられるはずがない。世界を相手に戦うことが出来るはずがないのは理の当然だ。日本人の奴等自身も嫌気がさしているが「モウスコシ マッテ マッテ」といっているのだ。一ヶ月の間に無条件降伏を二回話し合うというのは、面目を保つ終わり方を探しているということだ。もうすぐみんなに会えるよ。今夜日本人の奴等のために音楽会をしなければならないことになっているが、適当にやっておくつもりだ。
7月1日(1945年)
日曜日ですばらしく晴れた日だ。昼食前に3人のオランダ兵が死んだ。これで190人に減ってしまった。それで皆が沈んでいたが、食料の割り当ては少し良くなっている。病気になりさえしなければ何ヶ月かはやっていけるだろう。体重は53.1kg。ニュース無し。まだ食べ物の話ばかりしている。自由の身になったら何を食べるか。それに故郷や友達の話など。自分達のことは2年前に話せるだけ話してしまったから同じ話を繰り返すだけだし、みんな飽き飽きしている。しかし食べ物の話は尽きないようだ。ここで考えられた料理の作り方を聞いたらだれでも涎が出ることだろう。故郷では今とても寒いだろうと思う。ちょうど昨日故郷へ向けてシドニーからバイロン・ベイへ汽車で帰る話をしたところだ。シドニーの大きな港に人を満員に集め、家へ戻るまでずっと食べっぱなしで行く手はずについて話した。私の考えではジェシーを家に呼んでおいて、5時半に私が郵便列車で家に着きみんなに同時に会う。誰もやきもちを焼いたりしないようにね。でも、みんながシドニーまで会いに来てくれるかもしれないから、計画を立てるのは難しい。父さんが退職した後、お金に困らないように商売の手はずを整えてあるんだ。たいした儲けはないだろうけれど、父さんと僕の収入になるはずだし、父さんの生きがいにもなるはずだ。でもまだ早すぎる。家に戻ってから考えよう。そうだろう、父さん。今日一緒にビールを飲むことが出来たらいいのに。暑いからちょうどビールにいい。きっと楽しいだろうな。父さんもきっとそう思うさ。そのうち埋め合わせることが出来るよ。近いうちにリズモアに出かけて楽しくやろうよ。母さんには内緒で。
ここでは捕虜の間で富くじが盛んだ。二年前からやっているが、最近は毎日のようだ。5ポンドの掛け金で110ポンドを手に入れられる可能性がある。勝つことが出来ればうまい話だ。書く度にじきにみんなに会えると書いているけれど、また書いている。ここにいる私達は苦しんでばかりいるから、順番からいっても、じきにみんなに会えるはずだ。神の思し召しがあれば、すぐにでも。
7月24日(1945年)
昨日はある意味でお祭りのような日だった。ここ3日ぐらい食料の割り当てがかなり良く、気分も良くなっている。300グラムの米、干したサツマイモ、干した魚。食料の次に希望が持て勇気づけられることは、英戦闘機ハリケーンを含む7から13機の戦闘機がやってきたことだ。その素速いことといったらない。戦闘機を目の当たりにするのは初めてだったが、航空母艦か近くの基地から飛び立ったものに違いない。戦闘機もいいが、なによりも元気づけられたのはタバコがまた吸えることだ。毛布で作ったランバージャケットを160円で売ってタバコを買うことが出来たが、それがなによりのことだ。タバコがあればどんなに元気づけられるか分からないだろう。何にだって打ち勝つことが出来るのだ。4日以来何のニュースもないが、日本人の奴等も9日から何のニュースも聞いていないようだ。いい兆候だ。
我々はまだ食べ物の話をしている。母さん、僕の食欲を満たすには腕のいいコックを雇わなければならないくらいだよ。牡蠣に豆に臓物に甘いもの。考えるとつばが出てくる。オランダ人もやっと我々に追いついて、どちらも187人ずつになった。最初は500人余りいた。今月、オランダ兵は16人死に、我々の中から3人が死んだ。私は体の調子はいいが、弱っていて体重も52.7kgになった。でもクリスマス・ディナーのテーブルには私の席もとっておいてほしい。
8月16日(1945年)
まだ戦争捕虜だが、体の調子はいい。しかし戦争の進み具合には少しがっかりしている。もういい加減に連合軍は日本人の奴等に勝ってもいいはずだ。ドイツをやっつけて3ヶ月。ロシアが日本に対して参戦するというもっぱらのうわさだ。それで早くことが進めばいいと願っている。この島では米がかなり不足していて、3週間食べていない。干したサツマイモ、カボチャ、それに少量の干し魚(全員の分が一週間に一度4.5kgから10kg。)を食べている。サツマイモはうまいが下痢になりやすい。まだ亡くなっていく者がいる。182人に減り、運が悪ければもう何人かは死ぬだろう。オランダ兵の毛布を半分使うを権利を10円で買い、300グラムの刻みタバコと塩を半缶買った。4円で蚊帳を買い、ケチャップ3本、180本のタバコを買った。そこそこ良くやっている方だ。多くの者が畑をあきらめたが、私はまだ自分の畑を続けている。肉が入っていた缶詰の缶に一日一杯の温野菜を食べて助かっている。後十日で妹のペブの誕生日だ。ここにこれほど長くいようとは思ってもみなかったが、仮に我々の中の誰かが未来を知ることが出来ていたなら、我々は今こうして生きてはいないだろう。希望と楽観だけが私達を行かし続けているのだから。故郷の誰も我々が経験したことを理解できないだろう。みんなが経験しなくて済むことを願っている。腹一杯になることばかりを考え、どんなものでも口にする。どんな雑草でもうまいと思い、蛇やカタツムリがごちそうなのだ。仲間の一人は食べるために蛙を何匹か飼っている。どんな状態か分かるだろう。私の隣に座っている二人は地虫を焼いたものを食べていた。私も1匹食べたからうまいことは確かだ。それではまた。神よ我らをたすけたまえ。
サマに向けて汽車に乗り込むオーストラリア戦争捕虜兵。1945年8月31日。汽車は中国人ゲリラにより脱線し捕虜兵は引き返さざるをえなかった。
あとがき
1月31日(1996年)
54年前のちょうど今日、私達は戦争捕虜となった。なぜ私がこの「あとがき」を書いているかというと、私の日記を読んだ人は皆、日記は完結していないというからだ。最後に書いた日は1945年の8月16日であるため、戦争が終わった時私が何を考えてどんなことを経験したのかが書かれていない。最後の日々にどんなことを経験したのか思い出して書いてみようと思う。私が最後に日記を書いた日には、実際にはあの戦争は終わっていたのだが、さらに10日後の8月26日まで知らされなかった。早く知らされていたなら何人かの命が助かっていたかもしれない。2週間以上も閉じこめられたままで、小屋のひとつに屋根の上に戦争捕虜の文字を書くように命じられた。
1945年8月26日午後6時頃、私は病院で患者にビタミンBの粉末を与えていた。ビタミンBは籾殻をすりつぶして粉にし、私達が一服分ずつ紙に包んだものだった。これが脚気の者の助けになったのだ。我々の副官のクライブ・ニューマン大尉が日本人衛兵所から出てきて、閲兵場をこちらに向かって走りながら「終わったぞ。戦争が終わったぞ。」と叫んだのが次に聞いた言葉だった。私は籾の粉を投げだし「こんなものもういらないぞ。」と叫んだ。収容所は騒然とし、仲間は高揚して笑い出し、友と抱き合ったものだ。私はニール・マッケラーとアレン・ブラウンリーと一緒にカボチャを育てていたが、まだ小さく熟れていなかっため料理して食べるには早すぎたのを覚えている。その夜は家に帰ったら何を食べようか、何をしようか考えていて誰も眠れなかったと思う。翌日アメリカ機が一機飛んで来て3人の落下傘兵が降りてきたが、日本人の奴等が入ることを許さなかったため次の日まで会うことが出来なかった。日本人の制止を振り切りアメリカ兵が入って来たときに、無線で中国の昆明に連絡し食料、タバコなどが飛行機で運ばれ空中投下された。キャメルを立て続けに吸って大満足だった。我々の仲間を100マイル離れたサマの日本空軍基地まで汽車に乗せる手配をアメリカ兵がしたが、汽車は中国人ゲリラに襲撃され引き返さざるをえなかった。次の日はうまく通り抜けることが出来た。エートキン医師とダル・グリフィンと私は、重病だった香港からの中国人強制労働者の面倒をみるために後に残った。我々は1週間ほど滞在し、漁船でサマまで行った。そこにはアメリカ軍の野戦病院があり我々の面倒をみてくれた。体の調子のいい者の大半は駆逐艦で帰国したが、医療班は病人とともに残り、イギリスの病院船エルサレムで香港に渡った。そこから英航空母艦ストライカーに移されマニラ、マヌス島を経てシドニーに帰国した。到着したのが何日だったのかは聞かないで欲しい。本当に思い出せないからだ。今となっては遠い昔のことのようだ。私は除隊となった翌日恋人のジェシーと結婚し、二人はとても幸せに暮らした。ポールとナンの双子に恵まれ、私達は二人のことをとても誇りに思っている。家内を昨年亡くしたが、いつまでも私と一緒だ。
トム・プレッジャー
この日記が書かれた当時、私の母ジェシーは大戦前に出会った父を、3年間何の音沙汰もないまま待ち続けていた。二人は1945年12月1日に結婚した。私の父は1946年に戦争犯罪法廷でこの日記を使い証言した。父の日記と所持品は現在キャンベラにあるオーストラリア戦争記念館に収められている。オーストラリア戦争記念館はカモメ部隊や彼らの受けた残虐行為、島の景色、戦争捕虜解放に関する写真の優れたデータベースを所有している。
カモメ部隊の歴史については歴史家ジョーン・ボーモント氏の1988年の著書「Gull Force : Survival and Leadership in Captivity 1941-1945」(「カモメ部隊:とらわれの身における生存の術とリーダーシップ 1941−1945」)(出版社: Allen and Unwin, Sydney)で詳述されている。ブライアン・A・ウィリアムズ氏脚本の映画「Blood Oath」(「血の誓約」)は、1946年に開かれたアンボンに関する戦争犯罪法廷での彼の父の証言筆記録に基づいている。ビデオとCD−ROMによる「Australia Remembers 」(「オーストラリアは忘れない」)は、アンボンにおける戦争捕虜についての映像やデータを集めたものであり、第二次世界大戦の50周年を記念しオーストラリア各地の図書館に寄贈されたものである。
ポール・プレッジャー
シリマウ山から見たアンボン市街

息子のポールとプレッジャー夫妻(パット&トム・プレッジャー)
機関銃の銃座(シリマウ山)
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